秋珊瑚と檀香梅の花が咲頃になると渓流釣りを思い出す。
秋珊瑚、檀香梅の咲くのは3月初旬頃で渓流釣りが解禁になる時期です。
私が「山女魚」と「岩魚」を知ったのは40歳ぐらいで、5歳頃の倅と一緒に子供の魚図鑑を見ているときでした。
少年時代は神奈川県伊勢原市で育ったので山女魚、岩魚などはまったく見たことがありませんでした。
「釣り」や「魚掬い」で採れるのは「はや」「鮒」「鯉」「鯰」「ヤマベ」「ウグイ」「鰌」などでした。
山女魚、岩魚のとても綺麗な姿に感動し釣ってみたい気持ちになって一時、渓流釣りに懲りました。
最初の頃は一匹も釣れませんでした。
新聞でつり情報を読んでいっても釣れませんでした。
あるとき奥多摩湖の上流の丹波川の民宿に泊まったとき、宿の主人からつり方を教わりました。
それ以来「ぼうず」で帰ってくることはなくなりました。
初めて山女魚を釣り上げたときは感激でした。
宿の主人に感謝です。
下の写真は秋珊瑚の花です。

次は檀香梅の花の写真です

私が「山女魚」と「岩魚」を知ったのは40歳ぐらいで、5歳頃の倅と一緒に子供の魚図鑑を見ているときでした。
少年時代は神奈川県伊勢原市で育ったので山女魚、岩魚などはまったく見たことがありませんでした。
「釣り」や「魚掬い」で採れるのは「はや」「鮒」「鯉」「鯰」「ヤマベ」「ウグイ」「鰌」などでした。
山女魚、岩魚のとても綺麗な姿に感動し釣ってみたい気持ちになって一時、渓流釣りに懲りました。
最初の頃は一匹も釣れませんでした。
新聞でつり情報を読んでいっても釣れませんでした。
あるとき奥多摩湖の上流の丹波川の民宿に泊まったとき、宿の主人からつり方を教わりました。
それ以来「ぼうず」で帰ってくることはなくなりました。
初めて山女魚を釣り上げたときは感激でした。
宿の主人に感謝です。
下の写真は秋珊瑚の花です。

次は檀香梅の花の写真です

シンピジウムが咲くと家内の独り言が出る
毎年、1月半ば頃を過ぎると居間にある「シンピジウム」が咲く。
すると家内は「このシンピジウムはお父様から頂いたのね、沢山花が咲き寿命が長いのね」
と「独り言」を必ず言う。
矍鑠していた頃の義父は花作りが好きで庭に色々な花を植え手入れをしていた。
シンピジウムも其の内の一つで家内が株分けをして貰った。
秋の風物として咲く曼殊沙華は赤い色しか見たことが無かった.
練馬の家の門扉の左側に「黄色い曼殊沙華」が数本咲いていた。
それをみて大いに感動した。
義父も大切に手入れをして毎年見るのを楽しみにしていたようだ。
珍しいので、一株、無心して川越の家の庭に植えた。
だが、残念ながら翌年の秋には咲かなかった。旨く育てられなかった。
「シンピジウム」は家内が手入れをして10数年以上たつが未だに元気が良い。
近所の奥さん方に家内は株分けをしてあげたので
この「シンピジウム」は色々な人の手を経て広がって行くことだろう。
次の写真は居間にあるシンピジウムの写真です。

すると家内は「このシンピジウムはお父様から頂いたのね、沢山花が咲き寿命が長いのね」
と「独り言」を必ず言う。
矍鑠していた頃の義父は花作りが好きで庭に色々な花を植え手入れをしていた。
シンピジウムも其の内の一つで家内が株分けをして貰った。
秋の風物として咲く曼殊沙華は赤い色しか見たことが無かった.
練馬の家の門扉の左側に「黄色い曼殊沙華」が数本咲いていた。
それをみて大いに感動した。
義父も大切に手入れをして毎年見るのを楽しみにしていたようだ。
珍しいので、一株、無心して川越の家の庭に植えた。
だが、残念ながら翌年の秋には咲かなかった。旨く育てられなかった。
「シンピジウム」は家内が手入れをして10数年以上たつが未だに元気が良い。
近所の奥さん方に家内は株分けをしてあげたので
この「シンピジウム」は色々な人の手を経て広がって行くことだろう。
次の写真は居間にあるシンピジウムの写真です。

「三椏の蕾」と「オレンジ色のスカーフ」
12月の赤城の庭は木の葉が落ちて殺風景である。
動物に喩えれば肉が無く骨だけになって透かすかして膨らみがまるでない。
そんな所に「三椏」の白い蕾がポッコリと一塊ある。
薄暗くどんよりとした寒い冬空の下では、其の白さは一際目立ち、存在感を示す。
三椏は和紙の原料です。
埼玉県の小川町は和紙のふるさとで知られています。
毎年7月下旬頃に七夕祭りがあります。
竹笹に和紙を基にして作った飾り物が付けられます。
豪華さや艶やかさは仙台の七夕、平塚の七夕には及びませんが
鄙びて、落ち着いてしっとりした感じが何とも言えません。
もう10数年以上も前の事に成りますが、義母が突然の脳梗塞で転んで頭を打ち
出血が激しく入院しました。治療も一段落して退院する事に成りました。
病後の養生という事で私達と一緒に川越で20日ほど暮らしました。
義母は古風な気質があって、障子、灯篭、行灯、のような昔ながらの物には必ず
和紙を使う拘りが有ります。
そのような事もあって退屈凌ぎに「小川町の和紙センター」に行きました。
このときは、「三椏」の白い蕾がこれほど人を癒すなど思いもしませんでした。
昼食は私達が招待しました。
それゆえか、義父が和紙センターでオレンジ色に染めた正絹のスカーフを家内にプレゼントして呉れました。
それは気品を感じさせるものでした。
家内は本当に嬉しかったのでしょう。
今でも初冬から早春にかけての外出時は良く首に巻いて出掛けます。
下の写真は「三椏」の写真です

次は三椏の蕾の拡大写真です。

動物に喩えれば肉が無く骨だけになって透かすかして膨らみがまるでない。
そんな所に「三椏」の白い蕾がポッコリと一塊ある。
薄暗くどんよりとした寒い冬空の下では、其の白さは一際目立ち、存在感を示す。
三椏は和紙の原料です。
埼玉県の小川町は和紙のふるさとで知られています。
毎年7月下旬頃に七夕祭りがあります。
竹笹に和紙を基にして作った飾り物が付けられます。
豪華さや艶やかさは仙台の七夕、平塚の七夕には及びませんが
鄙びて、落ち着いてしっとりした感じが何とも言えません。
もう10数年以上も前の事に成りますが、義母が突然の脳梗塞で転んで頭を打ち
出血が激しく入院しました。治療も一段落して退院する事に成りました。
病後の養生という事で私達と一緒に川越で20日ほど暮らしました。
義母は古風な気質があって、障子、灯篭、行灯、のような昔ながらの物には必ず
和紙を使う拘りが有ります。
そのような事もあって退屈凌ぎに「小川町の和紙センター」に行きました。
このときは、「三椏」の白い蕾がこれほど人を癒すなど思いもしませんでした。
昼食は私達が招待しました。
それゆえか、義父が和紙センターでオレンジ色に染めた正絹のスカーフを家内にプレゼントして呉れました。
それは気品を感じさせるものでした。
家内は本当に嬉しかったのでしょう。
今でも初冬から早春にかけての外出時は良く首に巻いて出掛けます。
下の写真は「三椏」の写真です

次は三椏の蕾の拡大写真です。

「カニすき鍋」と「粗忽」な話
島根県松江市に住んでいるSY社長が12月早々に「松葉カニ」を送って呉れました。
SY社長は数年来仕事で世話に成っている方です。
旬の「松葉かに」が食べられるとは、SY社長に感謝です。
孫達は「カニ」アレルギーのため食べられない。
そこで、平素、懇意にして頂いているAS夫妻、SA夫妻、私達夫婦、三夫婦で「カニすき」をすることにしました。
朝、玄関と庭の掃き掃除しているとき見慣れない赤い小さな実を見つけた。
家内に聞くと
私が四年間苦心して育て、漸く実がついた「冬イチゴ」と言った。根気の要る事です。
いよいよ、六時半から三夫婦が集まって「カニすき」パーティが始まった。
2時間程たって、ある事が起きた。
卓上型コンロの火が突然消えてしまった事です。
この訳を細かく書くのはブログを読んだ人達が心配するので止めます。
兎に角、6人とも気づかずにいた事で大笑いとなった。
「粗忽」な事でした。
大事に至らず神に感謝です。
「粗忽」で誠に「豪毅」な話が私達夫婦に伝わっている。
それは、家内の母親系祖父の話である。
時は明治後半から大正初期のことです。
祖父は山口中学校(現在は高等学校)受験の為、家から試験場へ歩いていったそうです。
漸く、着いて試験場に入ったら試験が終わっていたとの事でした。
でも気にせず、悔やみもせず、涙も見せず、他の中学に入学し、
後に飛び級で海軍兵学校を受験し見事合格。
時が経って大佐となり駆逐艦艦長に成ったそうです。
今のご時世では有り得ないことです。
このブログを読んだ、娘や倅は何か思い当たる事が有ると思う。
下の写真は「冬イチゴ」の写真です。

次は雑炊寸前の「カニすき鍋」の写真です。

SY社長は数年来仕事で世話に成っている方です。
旬の「松葉かに」が食べられるとは、SY社長に感謝です。
孫達は「カニ」アレルギーのため食べられない。
そこで、平素、懇意にして頂いているAS夫妻、SA夫妻、私達夫婦、三夫婦で「カニすき」をすることにしました。
朝、玄関と庭の掃き掃除しているとき見慣れない赤い小さな実を見つけた。
家内に聞くと
私が四年間苦心して育て、漸く実がついた「冬イチゴ」と言った。根気の要る事です。
いよいよ、六時半から三夫婦が集まって「カニすき」パーティが始まった。
2時間程たって、ある事が起きた。
卓上型コンロの火が突然消えてしまった事です。
この訳を細かく書くのはブログを読んだ人達が心配するので止めます。
兎に角、6人とも気づかずにいた事で大笑いとなった。
「粗忽」な事でした。
大事に至らず神に感謝です。
「粗忽」で誠に「豪毅」な話が私達夫婦に伝わっている。
それは、家内の母親系祖父の話である。
時は明治後半から大正初期のことです。
祖父は山口中学校(現在は高等学校)受験の為、家から試験場へ歩いていったそうです。
漸く、着いて試験場に入ったら試験が終わっていたとの事でした。
でも気にせず、悔やみもせず、涙も見せず、他の中学に入学し、
後に飛び級で海軍兵学校を受験し見事合格。
時が経って大佐となり駆逐艦艦長に成ったそうです。
今のご時世では有り得ないことです。
このブログを読んだ、娘や倅は何か思い当たる事が有ると思う。
下の写真は「冬イチゴ」の写真です。

次は雑炊寸前の「カニすき鍋」の写真です。

「バイオリン独奏会」と「神宮外苑銀杏並木散歩」と「勝鬨橋辺り」
クラシック音楽オンチの私ですが、Sご夫妻と家内からの誘いでバイオリン独奏会に行きました。
最後の演奏「・・・・・バラード」は良かったです、何となく心に沁み込んで来るような感じでした。
後で、家内の感想も「・・・・・バラード」が一番であった様で
感じ様は、皆な同じと分かって、内心ホットしました。
会場に行く前、神宮外苑銀杏並木、国立競技場前の公園を散歩しました。銀杏並木は黄葉して綺麗でした。
この後、大江戸線に乗って勝鬨橋を見に行きました。
時刻も夕暮れ時で隅田川の向こうにライトアップされた「東京タワー」が美しかった。
そして築地市場界隈にある「すし屋」で鮨を食べた。実に美味しかった。
機会があれば家内の母親を連れていって遣りたい。
築地界隈は私にとっても色々な思い出がある。
49年前頃(昭和35年)、父の事務所が八町堀にあってそこへ手伝いに行きました。
山手線の有楽町駅で降りて交通費を浮かすため、徒歩で、日劇、銀座の三愛ビル、歌舞伎座、築地、小田原町を左に曲がって築地本願寺、聖路加病院、を経て事務所へ行った。
小田原町付近に「ふぐ料理の専門店」が有りました。
無くなった母が「ふぐは食べたし命は惜しし」と言っていた。
また落語に「らくだの馬さんがふぐを食べて死んでしまった」話もある。
何時か「ふぐ」を食べて遣ろうと思いました。
家内と結婚して、家内の両親の共をして山口に行ったとき家内の父が「ふぐ料理」をご馳走してくれました。
このときの料理は実に豪華で身震いしました。
それは「ふぐ料理の専門店」を知って12年後の事でした。
家内の父に感謝です。未だに覚えています。生涯忘れないでしょう。
下の写真は神宮外苑銀杏並木の写真です。

次は勝鬨橋の袂からライトアップされた東京タワーの写真です。

最後の演奏「・・・・・バラード」は良かったです、何となく心に沁み込んで来るような感じでした。
後で、家内の感想も「・・・・・バラード」が一番であった様で
感じ様は、皆な同じと分かって、内心ホットしました。
会場に行く前、神宮外苑銀杏並木、国立競技場前の公園を散歩しました。銀杏並木は黄葉して綺麗でした。
この後、大江戸線に乗って勝鬨橋を見に行きました。
時刻も夕暮れ時で隅田川の向こうにライトアップされた「東京タワー」が美しかった。
そして築地市場界隈にある「すし屋」で鮨を食べた。実に美味しかった。
機会があれば家内の母親を連れていって遣りたい。
築地界隈は私にとっても色々な思い出がある。
49年前頃(昭和35年)、父の事務所が八町堀にあってそこへ手伝いに行きました。
山手線の有楽町駅で降りて交通費を浮かすため、徒歩で、日劇、銀座の三愛ビル、歌舞伎座、築地、小田原町を左に曲がって築地本願寺、聖路加病院、を経て事務所へ行った。
小田原町付近に「ふぐ料理の専門店」が有りました。
無くなった母が「ふぐは食べたし命は惜しし」と言っていた。
また落語に「らくだの馬さんがふぐを食べて死んでしまった」話もある。
何時か「ふぐ」を食べて遣ろうと思いました。
家内と結婚して、家内の両親の共をして山口に行ったとき家内の父が「ふぐ料理」をご馳走してくれました。
このときの料理は実に豪華で身震いしました。
それは「ふぐ料理の専門店」を知って12年後の事でした。
家内の父に感謝です。未だに覚えています。生涯忘れないでしょう。
下の写真は神宮外苑銀杏並木の写真です。

次は勝鬨橋の袂からライトアップされた東京タワーの写真です。




